「……賢者様?」
ともすれば風にかき消されてしまいそうな声をかろうじて拾えたのは、風以外の音が全くしないからだろう。白い息を吐きだして下を見ると、月光に髪を照らされた、不安そうな眼差しと日が合った。
「ヒース、こんばんは」
木を降りて彼と同じ視線になっても彼の曇った表情は晴れない。不意におれの手を取ると彼はばっと顔を上げた。
「賢者様、冷えています。どれだけの時間ここにいたんですか」
「え、えーと……夕暮れが縞麗だなって思って……沈んだ後も、なんとなく……雲の流れる感じとかを……みてました……」
時計を見ていたわけじゃないから正確な時間はわからないが、どうやらおれの説明は結構な時間夜風に当てられていたことを示すらしい。言葉をつなげるごとにヒースの瞳が切なげに揺れるものだから、下手に怒られるよりもずっと心臓のあたりが締め付けられるような心地だ。
ヒースクリフはおれに対して心配性だった。ひょっとするとクロエよりも。前の賢者様と親しかったというのもあるのだろうが、おそらくは以前ヒースの前で「帰りたい」とこぼしてしまったのがきっかけ。発言自体は他意のない……なんというか、「眠い」とか「ちょっと疲れた」とかそれぐらいの軽ーい一言のつもりだったのだが、彼からしてみれば重大な言葉らしかった。そこまで追い詰められているわけではないという話もしたのだが、ヒースクリフが元々真面目な性格なのもあり心配そうな態度はあまり変わらず、彼の親切心にはありがたみと申し訳なさの両方を感じていた。
「……ちょうど、戻ろうとしてたところだったんだ。ヒースクリフが来てくれてよかった」
「……はい。あの、……」
「ん?」
「……、……いえ、すみません。なんでもないんです」
「そう……?」
もちろん何でもないようには見えない。見えないが、追及すればするほど言いづらくなってしまう。戻ろうかと声をかけて、でも彼が話したいという気になったときに気後れしない程度の速度で歩きだす。
数歩分遅れてヒースクリフも歩き出した。
おれたちの間には、まだ距離がある。
2020/10/26
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