まだ起きていられるのにな


 賢者の書を書き終え、明日の用事に備えて眠ってしまおうかという時間。
「……ねえ。直隈って、俺のどこを好きになってくれたの?」
 唐突に、クロエが尋ねた。むつみごとというよりは純粋にふと気になったみたいな聞き方だ。振り返ると彼は声色通り、ベッドに寝転びながらくつろいだ様子で、しかしにわかに好奇心に駆られた様子でこちらを見ている。
「なんで?」
「ちょっと、気になって」
「どこ……うーん」
 彼の温度感は照れて誤魔化せそうなテンションでもない。それに彼に聞かれたのは彼に想いを伝えるまでの長い期間や、シャイロックに同じ問いを投げかけられた時など、幾度となく自問してきた質問だ。答えは出ていると言えば出ているし、出ていないと言えば出ていない。
 ううん、首を捻りながら椅子から立ち上がると、彼は元いた場所よりもさらに気持ち奥へと詰めた。魔法で大きくしたベッドの掛け布団との間に身体を滑り込ませる。その間にどう答えるべきかを思案した。
「……最初、この世界に来た時に……」
 おれが口を開くと彼は視線だけで相槌を打った。みんなの中心ではしゃいでいる瞳とも違う、ややさざ波だったすみれ色の瞳がおれを映す。
「なんで他の誰かじゃなくておれなんだろうとか、ほんとに現実なのかなとか、元の世界に帰れるのかなとか……うーん、他にも色々あったけど、とにかくいっぱい考えてたんだよね」
 布団の中をまさぐって、クロエの手を見つけた。いつもみたいに冷たくて、隅々まで手入れされているきれいな手。彼もそっと握り返してくれるのに堪えきれなくなった笑みをこぼす。
「ふふ、元いた場所にいつ帰れるかの保証もなかったのに……クロエが『一緒に賢者様の世界に、俺も行ってみたいな』って事もなげに言うもんだから。このひと、すごいこと言うな……って」
「……それって、本当に出会った頃だよね? それが、俺を好きになってくれたきっかけ?」
「いや、その時は『すごいこと言うな……』って感想がデカすぎて素直に感心したっていうか。うーん、クロエのどこを好きになったかって、自分でも考えたことあるけど結局後付けっぽく思えちゃって……。でもきっかけの一つは、それなのかなって思うけど……クロエはどう思う?」
「どうって……うーん」
「クロエだって、おれのこと好きになった理由はっきりとはわかんないんじゃない?」
 そうかも、って返事がくると思いきや、彼は瞬きをしたあと自信ありげに微笑んで「わかるよ」と指を絡めた。先ほど詰めていた分を戻すようにおれににじり寄り、内緒話をするときのように顔を近づけ声を潜めた。
「直隈が俺のこと好きになってくれたから、俺も直隈のこと好きになれたんだよ」
 唇に彼の息がかかる。クロエの言葉を理解して、まるで予想外の答えに「なんで……?」と情けない声が漏れ出た。つい引いてしまいそうになる手を文字通り繋ぎ止めて彼は至極嬉しそうに微笑む。
「直隈が俺のことずっとみててくれたから、俺は気付けたんだよ。直隈は自分の心を隠すのが上手だけど、もっと上手かったら、いつまでも気付けなかったかも」
「じょう……ずかあ? いや、そうじゃなくて……えっ、おれが好きって……言っちゃった時に初めて考えてくれたとかじゃないの?!」
「違うよぉ」
 えへへ、と可愛らしく笑いながら彼はおれの手を握ったり離したりするのを繰り返している。予想外の答えにおれの心臓はバクバクの大音量で、血液の循環を行うせいで顔が熱いし、恥ずかしさのあまり視界も滲んできた気がする。
 何が隠し上手だ、おれの好意なんてバレバレだったんじゃないか!
 枕に顔を伏せてじたばたもがく。恥ずべき事実と、しかしそれがあってクロエがおれのことを好きになってくれたというコンボに感情も理性も全部ぐちゃぐちゃになってしまった。
 まさかクロエの素朴な疑問がこんな展開になるなんて思ってもいなかった。彼は手だけでなく身体ごとおれを抱きしめて、耳や髪に触れるだけのキスを繰り返す。触れるだけだがしっかりとリップ音を鳴らすのでじわじわクロエにのまれてしまいそうだ。
「ねえ直隈、えっちしたくなっちゃった、ダメ?」
「まっ……クロエほんとそこで喋んないで……! あっ、明日、は……朝が早いのでダメです……!」
「そっかぁ、残念……じゃあちゅうだけしていい?」
 それは、断る理由がない。おかしな表情にならないよう唇を引き結んでみたけれど、結局おかしな表情になってしまっている気しかしない。
「好き、直隈」
「……クロ、ぁう……」
 直球の言葉に口を開くと、彼はおれが断った通りキスだけして嬉しそうに離れていった。幸福そうに潤んでいる瞳をふせて、おれの手を引き寄せちゅうと音を立てる。
「えへへ。おやすみ、直隈」
「……」
 消し忘れた灯りを彼は呪文で消してくれた。おれはおやすみの挨拶以外の何か言おうとして口を開いたままやはり言葉を見つけられずに、身体ごと乗り出してクロエがしたようなキスと言葉を返した。
「おやすみ。……好きだよ、クロエ」
 明日の予定が詰まっていなければよかったなんて、こんなに思った日はない。


2022/10/10