最近、つい賢者様のことを目で迫っている自分に気が付いた。きっかけはいつもみんなに優しい賢者様が、もしかしたら、俺にだけもっと優しくしてくれてるのかもしれないと思ったから。
もっと、とは言ってもあからさまに贔屓されているわけではない。例えばこちらを見つめる彼の眼差しが、一瞬の空気が。なんだか他の魔法使いたちへ向けるものとは違うような気がするのだ。
はじめにそうかもしれないと思った時は、まさか自分が誰かに特別に好かれていると思うなんてと恥ずかしくなったけど、でも、熱の街で。一連の騒動のあと、みんなが祭りを楽しむ中ひとり休憩している賢者様を迎えに行った時。彼の赤らんだ顔を見て、俺が感じたことは気のせいでも思い上がりでもなかったんだと気が付いた。それきり、俺は賢者様のことが気になって仕方が無くなってしまった。
とはいっても、賢者様がなにか特別なアクションをすることはなかった。そもそも彼は俺が気が付くよりも前から、気のせいだと思っていた間も、確信してからだって態度を変えたことはないのだ。つまり、恋愛小説なんかでよく見たような、好きだと自覚したら一直線……みたいなことはなく。確かに賢者様は熱血タイプというわけでもないし、にぎやかな祭りの輪から離れてひとり花を眺めることを選ぶひとだけど。
じゃあ、俺はどうしたらいいんだろう。
例えば好きですって言われたとすれば答えようがある。はいとかいいえとか、考えさせてくださいとか。でも賢者様は俺に何も伝えていないし求めてもいない。まさか直接賢者様に俺のこと好きなんだよね? なんて聞きに行くのもおかしな話だし。それに、本人が伝えていない気持ちに気付いてしまったのは、どこか賢者様に悪いことをしているような後ろめたさもあった。
ぽこぽこと浮かんでは消える思考の海に沈んでいると、 次第に頭を出してくるのが「やっぱり、全部俺の気のせいなんじゃないか?」という考えで。それ以降は堂々巡りになってしまう。いやでもあれは、これだって。まとまった結論なんて出るわけもなかった。
「あ」
なんてことを考えていたら、キッチンで賢者様にばったり出くわした。
手にはフライバン、口にはなにか薄い生地のようなものを咥えている。きっと味見をしていたんだろうけど、なにを食べてるんだろう。俺と目が合った彼は一瞬気まずそうに目を泳がせて、モゴ、と口を動かした。それからようやく喋れないことに気付いたらしく、そっとフラィバンを置くと同時に嚥下した。食べきったみたいだ。
「お行儀悪いとこ見られちゃった……」
「ええ〜? そのぐらい俺もするよ。何作ってるの?」
気恥ずかしそうにつぶやく彼に笑いながら尋ねる。賢者様が向けた視線につられるようにして俺も見ると、先ほど賢者様が食べていたのと同じものが平皿の上に重なっている。彼がたまに深夜作っているバンケーキよりもずっと薄い生地。
「クレープ?」
「うん。おやつ作ってたんだけど一人分には多くて……どうしよっかなって思ってたらクロエが来た」
はい、と小さいサイズを一枚眼前に向けられてロを開ける。しっとりとした生地には優しい甘さがあった。
「おいひい……」
もぐもぐと口を動かしながら感想を伝えると、嬉しそうに彼ははにかんだ。かと思えばその微笑みは何かを企んでいるようなものに変わって、そのただならぬ雰囲気にちょっとどきりとする。
「んじゃあ、クロエも共犯者ね」
賢者様は俺との間に皿を置いた。きっとこれは一緒に食べませんかという意味だ。ちょっと変わったお茶会のお誘いを受けて俺はさらにドキドキした。いたずらをするときの後ろめたいような、でも楽しいようなときめきは胸を躍らせる。
「じゃあ俺は、いまにぴったりの紅茶を淹れるね!」
呪文を唱えてポットとカップ、そして一風変わった茶葉を呼び出す。お湯を注ぐと漂う香りに彼も気が付いたようで、スパイシーだね。呟いた言葉にうなずいた。
「賢者様が用意してくれたクレープがプレーン味だし、合うかなと思って」
「うんうんめっちゃ合う! 美味し〜、ありがと」
「えへへ、こちらこそ」
さらに一枚クレープをかじる。すぐに千切れるかと思ったけれどもちもちの生地は思ったよりも伸びがよくて、ようやく噛み切れた頃にはむしろ手で持っている方が小さくなってしまった。それがすごく面白くって、ねえ賢者様。そう呼びかけようと顔を上げて静止した。
あの"いつもと違う”彼の瞳が俺を見つめていた。俺の言動の何がきっかけになったのかはわからないけれど、やっぱり気のせいなんかじゃない。
「あは、伸びちゃったね」
そしてまたすぐに戻る眼差し。いや、もしかしたらどちらも混ざったものなのかもしれない。魔法で沸騰させたポットみたいに俺の頭は急激に煮えてしまって、自分が何をすべきなのか、とうしたいのかがわからなくなっていた。
「……あの、賢者様……」
さっきの眼差しには、どんな意味があるの。聞いてみたいような、聞くのが怖いような問いが頭の中を回っている。
「うん?」
賢者様がクレープを一枚かじった。俺から聞くのはおかしいって、ついさっきまでそう思っていたはずなのに。
言いあぐねていると遠くの方から俺を呼ぶ声が聞こえた。ルチルの声だ。そうだ、今日は午後から出かけようって話してたんだ。
「あ」
賢者様が顔を上げた。多分、見つかっちゃうかもって考えてるんだと思う。
「あっ! お、俺、ルチルと出かける予定あるんだった! 急がないと……賢者様ごめんね、片付けもしないで……!」
「ああうん、それは全然いいんだけど……」
渡りに船と言わんばかりに、賢者様の言葉を聞き終わる前に俺はキッチンを飛び出した。少しくらい遅れてもルチルは怒ったりしないことを俺は知っている。でもそれを理由にして賢者様の元から去ってしまった。
どうして逃げたの?
その答えはまだ出せそうにない。だって、さっきの彼の眼差しが、いつまでも頭から離れてくれないから。
2021/09/12