「賢者様の爪のお世話、俺がしてもいい?」
爪、そろそろ切らないとなあ。お風呂の後に何の気なしにこぼれた呟きを拾ったクロエが、おれを見上げて首を傾げた。
「え、う、うん?」
どういうこと? と聞き返す。流れ的には爪を切るってことなんだろうけど、そこまで人にさせるのはなぁ。みたいな抵抗はちょっとある。しかしクロエはウキウキと道具を魔法で取り出しはじめている。爪の手入れ一つとっても、こだわりがあるようだ。さすが、のんびり屋であるラスティカのお世話を進んでやっているだけある。面倒見がとてもいい。
「俺ね、いつも服を作らせてもらってるでしょ? その関係でヘアアレンジとかもやり始めたらどんどん凝るのが楽しくなってきちゃって。あ、爪に色を塗ったりする行為っていうのは元々呪術的な意味あいもあるみたいなんだけど、賢者様の世界にも、爪を飾る文化はあったんだよね? だったら多少は見慣れてるかな。もしかするとはじめはちょっと違和感があるかもしれないけど、指先まで磨くとやっぱり所作も綺麗に見えるし……どうかな? ……ふふ、なんてね、とにかく俺が賢者様をフルコーデしてみたくなっちゃったんだ」
だめ? 彼にそう聞かれて、首を横に振ることができる者がいるだろうか。少なくともおれには無理だ。加えてどの色がいいかなぁ、なんて嬉しそうにとりどりのネイル瓶を眺めているものだから、いよいよ悪いよと言い出すのもはばかられて。結局クロエの押しに負けたおれは、彼に両手を差し出すのだった。
それからしばらくして。おれの爪はきれいに切りそろえられ、ついでにやすりもかけられて。甘皮の処理だとかベースコートがどうのという聞き慣れないワードを説明してくれるクロエにうんうん頷きながら聞いて、クロエ作のおれの爪はついに完成した。初めてだからおとなしめのやつからはじめよっか。そう言ってクロエが塗ってくれたのはライトオレンジのネイル。ミスラがしているようなはっきりとした色ではなく、元の爪とそう大差ない色合いなので自分で見ても違和感はない。魔法で瞬時に乾いた指先をぐっぱーすると、部屋の照明を反射してきらめいて見えた。
「わぁ……つやつやしてる」
「ふふ、賢者様すっごく似合ってる。きれいだよ」
「あ、アリガト……」
彼に他意はないのだろうが、どきっとしてしまう。相手を褒めることへの照れがなく語彙も尽きないのは師匠譲りなのだろうか。
「お、賢者さん、いいもん付けてるじゃないか」
買い出しに言った野菜やら肉やらをしまう最中、顔を覗かせたネロにそう声をかけられた。何のことだろうと思考していると、彼はこれこれというように自分の指先をさしたので、おれはあっと声を上げる。
「うん、そう! こないだクロエにやってもらったんだ。めっちゃよくない?」
「へえ……器用なもんだな」
「すごいよね。今までこういうの付けたことなかったから知らなかったんだけど、自分の手って頻繁に見るものだから……ふと目線を下げたときにも、自分の爪がぴかぴかしてると、こう、身が引き締まるというか……がんばろって気持ちになる」
手をくるくると裏返しては戻してを繰り返す。半ば独り言のような呟きだったが、彼は穏やかに微笑んでおれの頭をやわくなでた。
「それ、仕立屋さんに直接言った方が喜ぶんじゃないか」
「……そうかな、……そうかも」
任務のための衣装を受け取りお礼を言ったときの彼の笑顔が浮かんだ。おれにとって自分の気持ちをのせて相手に感謝を伝えるというのは、むき出しの自分をさらけ出すような行為に思えてどうしても恥ずかしいという気持ちが勝ってしまう。けれど、彼は人からの称賛を素直に喜べる器がある人だから、おれの口下手な誉め言葉も、きっと喜んでくれるだろうと思った。
「……爪、伸びてきたな」
クロエが時間と手間をかけて施してくれた色は根元からやや離れ、地の爪よりもやや白っぽい半月が顔を覗かせていた。クロエの部屋を訪ねて声をかけると扉はすぐに開く。
「賢者様! どうしたの?」
「これなんだけど、伸びてきちゃって……どうしたらいい?」
手を見せると、クロエは得心がいったというように頷いた。
「そっか、そろそろだよね。また整えるからどうぞ、入って?」
「あ、うん……おじゃまします」
クロエの部屋は、前回爪を整えてもらった時以来だ。今は衣装作りの仕事も立て込んでおらず綺麗に片付けられている。向かい合って座りながら、クロエは右手から順番に一本一本丁寧に処理をしていく。前回は自分の爪をじっと見ていたから気が付かなかったが、人に施すだけあってクロエ自身の手もきれいに整えられていた。
「ネイルしてて不便とかなかった?」
「ううん、全然。短めにしてくれたから料理するにも困らなかったし。むしろ…──」
そこで、ふと言葉を止めた。しばらく前、ネロと交わした会話を思い出す。それ、仕立屋さんに直接言った方が喜ぶんじゃないか。彼の言葉に背中を押されて口を開いた。
「あの、さ。最近は報告書とか、書類仕事が多かったんだけど」
「うん」
おれの指先を注視しながらクロエは相槌を打った。脈絡なく話が途切れたが、それを指摘されることはなかった。作業に集中しているのか、とにかく話を聞こうとしてくれているからなのか。彼の場合はきっと後者だ。
目を伏せているから、彼の瞳を縁取る赤いまつげがよく見える。真剣な眼差しに、かっこいいなぁと思いながら言葉をつなげた。
「疲れたーって思ってのびとかしてると、クロエにしてもらった爪がちょうど目に入って、よっしゃもうちょっと頑張ろ! って思えてさ。すごく元気をもらえた。だから、ありがとう」
「……、そっか、よかった」
おれの指先に触れた手に力がこもるのがわかった。クロエは赤いまつげを震わせて何度か瞬く間におれを見上げる。そして、至極嬉しそうに微笑んだ。
クロエはいつもおれのことを言葉を尽くして誉めてくれるからおれももっと沢山の言葉を送ろうと次のワードを探していたのに、彼のその微笑みをみたら、浮かんでいたはずの色んな言葉がどこかに飛んでいってしまった。
「まかせて、賢者様。俺がもっともっと、元気になってもらえるような爪にするから!」
クロエは伸びた分を整えて、欠けた部分も補修して、浮いた爪の付け根の部分は別の色のネイルで線を引いた。他の誰が見てもすぐに気が付くぐらいにコントラストの差がある。つい先ほどまでの爪とずいぶん印象が違って見えた。
完成したそれを手を広げて様々な角度から眺める。どれだけ眺めても眺めたりないぐらいだ。クロエは本当にすごい。
「クロエ、ありがと…──」
そう言おうとして彼に向き直ったけれど、目を合わせたクロエはおれを見て微笑んでいた。手じゃなくて、おれの方。目が合ったから。
「……、クロエ?」
「俺、賢者様の喜んでる顔が好き」
「へっ、」
ぎゅっと、手を握られた。
「瞳がきらきらしてて、じっとそれだけを、まるで宝物みたいに見つめて。俺が初めて任務のときに、賢者様にって服を渡したときもそうだったよね。刺繍に凝ったところとか全部見てくれて、すぐに着て見せてくれるし、くるって回ってくれるのも好き。食事のときはすごく気を遣ってくれてるのも、いいのにって思いながらもすごく嬉しいよ。俺ね、毎回賢者様に服を作るときはどんな風に喜んでくれるかなって考えながら作ってるんだ。いつも、俺の作った服を大切に着てくれてありがとう、賢者様」
つまり、おれのはしゃいでいる様子はめちゃめちゃクロエに見られてたということで。顔にぶわっと熱が集まる。クロエに握られた手も、汗とかやばいんじゃないだろうか。ちりぢりになったクロエへの誉め言葉をかき集める間もなく、八つ当たりなのか照れ隠しなのか分からない言葉がかわりに飛び出していく。
「──…お、おれの方がクロエのこと誉めようと思ったのに、おれの方が誉められてるじゃん!」
「えっ?! そんなこと考えてたの?! それはそれですごく嬉しいけど……ふふ」
ほんとうに彼は嬉しそうに笑っている。喜んでもらえているのだから、当初の予定は達成されている。それでいいはずなのだが。ううーっとよく分からないうなり声を上げながら手を握り返した。汗がやばいかもしれないことなど知らん。
クロエを、クロエを誉め倒せるだけの語彙力がほしい……!!!
でもさすがに一朝一夕では手に入るものではない。であれば次の手は、クロエのすごさを知ってもらうためにこのきらきらぴかぴかの爪を、魔法舎のみんなに見せに行くことだ!
2020/06/14
Tweet