魔法舎の中庭。噴水近くのちょうど日陰ができるペンチに座り、俺は刺繍に励んでいた。俺は手縫いが好きだ。一針ごとに少しずつ、でも着実に出来上がっていく装飾は自分の努力が認められているようで嬉しいし、ふと時間がたっていたことに気が付いて伸びをするときの心地も、言葉にはしづらいけど面白いような気がする。
昔から繰り返して馴れている行為だし、ミシンを使えば、魔法を使えばさらにずっと短い時間で仕上げることもできるけれど。自分の指の感覚を忘れないようにするためにも、自分の楽しみのためにも、急を要するとき以外は大概手縫いをしていた。
「できたっ!」
留めたあとぷちんと糸を切る。クローバーといまにも飛び立とうとしているてんとう虫の刺繍が完成した。うん、中々綺麗にできたと思う。
次はどんなものを作ろうかなとあれこれ考えていると、後ろから声がかった。その声にすぐピンときた俺はぱっと後ろを振り返る。
「クロエ、こんにちは」
「賢者様! こんにちは!」
彼は二か月ほど前に異世界から召喚された賢者様。今まで住んでいたところから呼び出されて、知り合いが一人もいないこの土地で大いなる厄災と戦うために、人間と魔法使いの橋渡しをしてくれている。日常会話や任務に必要な会話はもちろんするし、西の国の魔法使いのみんなとお茶会をしたこともあるけれど、実のところ一対一でたくさん話す、というのは今までできていなかった。俺としては少しくらい仲良くなれたと思っているけれど、すっごく仲良くなれた! とはまだ言い難い。
(ほかの賢者の魔法使いのみんなとは徐々に仲良くなれてると思うし、賢者様とももっと仲良くなりたいなぁ)
一緒に暮らす仲間だからとか、賢者様だからとか、この魔法舎においては少数派の人間だからとか、そういった理由以外にも、彼ともっと話したいと思う理由があった。
「仕立屋さん? ああ、道理で……」
「……? 道理で、って……どういうこと?」
「あー、えっと……。クロエのこと、一目みたときからオシャレさんだなーって思ってたから……」
俺が仕立屋を目指している、と自己紹介で言うと納得したように呟きを漏らした。その言葉を聞き返すと、俺たちの賢者様――直隈はちょっと照れたように理由を呟いた。
その瞬間から、俺は賢者様のことが大好きになってしまったのだ。だから、本当はもっと早く行動に移せたらよかったんだけど。パレードに授業に任務にと魔法舎での日々を忙しなく過ごすうち、ついつい機会を逃してしまっていた。でも、今日がやっと回ってきたチャンスだ。心中で気合を入れた俺は彼に問いかけた。
「賢者様、いまからどこかにおでかけ?」
「ううん、ただの休憩中。クロエは?」
「俺は刺繍してたんだ。完成したから、次はなに作ろうかなって」
賢者様は俺の手元に視線を落として、おお……と感心したような声を漏らした。自己紹介の時に道理で、と呟いたのと同じ声色だ。彼の呟きを聞いて、俺は嬉しさと恥ずかしさの入り混じった照れくさい気持ちになる。それを隠すようにベンチの空いたスペースに促すと、彼は腰かけてからもう一度俺の手元をのぞき込んだ。
「きれいだね。てんとう虫、飛ぼうとしてる……かわいい」
「えへへ、ありがとう……よかったら、どうぞ?」
「いいの? やったー!」
俺がハンカチを差し出すとそのまま彼はうけとり、刺繍の部分を指でなぞったり、ハンカチを広げてから少し遠ざけたりして眺めている。その光景を見て、俺は頭の中のビースがかちりとはまった気持ちになった。
――……ねえ、賢者様。
そう言おうと口を開いた瞬間、フラッシュバックしたのは少し前の出来事。びりびりに破かれてしまった青い鳥。呪い殺そうとしているんだろう、という罵声。
「、っ……」
言葉が、出てきてくれない。口に何かよくないものががべっとりとまとわりついているようだ。なれない洗黙に変に思われてしまったらどうしようと焦っていると、不意に賢者様が笑みをこぼした。
「……ふふ、」
「……どうしたの?」
どこかにほつれがあっただろうかと不安になったけれど、すぐに彼の微笑みは違う種類のものだとわかった。
「見てて思ったんだけど。こっちの世界でも、四つ葉のクローバーとてんとう虫っていいものの象徴なのかなって」
「……うん。賢者様の世界でもそうなんだ?」
「そうだね。こっちの花や木の名前は、向こうでも同じものがあったり、かと思えば全然違う名前がついてたりで面白いよ」
「そっかぁ……。あ、じゃあ、このハンカチは四つ葉だけど、五つ葉はもっと幸せを呼ぶって言われてるのも同じ?」
「五つ葉?! あはは、ないことはないだろうけど、めったには聞かないかな。……そういえば、ミチルが森で摘んできた植物にそんなのあった気がする」
「薬品の調合にも使うみたいだね」
「うん……いろいろ教えてもらったんだけど、聞きなれない言葉が多くて、いまいち覚えられてないんだよね」
せっかく教えてくれたんだし全部一回で覚えられたらいいんだけど…。独り言のようにつぶやいた言葉は俺にもよく覚えがあって、深くうなずいた。
「ああ、わかるなあ。西の授業もね、シャイロックが俺に合わせて進めてくれるんだけど、それだけでも申し訳ないなぁって思うのに、やっばり俺が一番できないことが多いから……」
「あー……西はクロエだけ魔法使い新人だもんね。いろいろ申し訳ないのはわかるなー……」
「……賢者様も、そうなんだ」
うんうん領いている彼に思わすず聞き返してしまった。すると賢者様の方が、俺がびっくりしたこと自体にびっくりした、という顔をしている。
「うん。え? おれ何でもできるみたいなイメーシジもたれてる?」
「えっと、うーん……」
そういうわけではないけれど、漠然と「あの」賢者様なんだしすごい人なんだろうなぁ、というイメージは持っていた。けれどこれは目の前にいる「直隈」自身ではなく、伝説の「賢者様」という立場についたイメージだということにたった今気が付いた。さすがに本人には伝えがたく言いあぐねていると、彼は遠い目をして笑った。
「あのね、何でもできる人は熱出してもぶっ倒れる前に気付くよ、たぶん」
彼が言っているのは、まさに彼の身に起きたことだ。俺は居合わせなかったけれど、以前朝食の時間にリケが迎えに行ったら熱を出して倒れたという話はすぐさま魔法舎中に広まった。うつるといけないからとお見舞いには行けなかったけれど、賢者様がはやく元気になるのを祈り、みんなでシュガーを作ったのはまだ記憶に新しい。
「それに、おれは書頬仕事が山ほどあるのにまずは文字覚えるところからだから、クックロビンやルチルにはお世話になりっぱなしでさぁ……」
「で、でも! ……賢者様は、知らない土地に来たばっかりなんだし、仕方ないよ」
「あはは、ありがと。でも、慣れないって意味ではクロエもそうでしょ。今までずっと旅してたなら、集団生活も初めてだろうし」
「……」
「おれたち、頑張ってるんだよ」
彼の一言には、自嘲も卑屈も尊大もなかった。ちょうど、俺たちに吹いた風みたいに軽やかで前向きなものだ。おれたち、がんばってるんだよ。口の中で彼の言葉を復唱する。知らず識らずのうちに入っていた肩の力がようやく抜けたような。肩の力が抜けて初めて、今まで力が入っていたことに気付いたような気分だった。
「はー。お互い、頑張りすぎない程度に頑張ろ。ハンカチありがと」
「……、あっ、あのね、賢者様」
言いながらハンカチをたたんで俺に返そうとする賢者様。俺はさっき言いかけた言葉を思い出して、ありがとうと言った彼の手を止める。また、つい、嫌な記憶がよみがえってしまう。……ううん、大丈夫。賢者様はそんなことを言う人じゃない。かぶりをふると、まとわりつくような口の重さは再び吹いた風と共に去っていた。
「……ねえ賢者様、もしよかったらこのハンカチ、もらってくれないかな」
「えっ……! お、おれそんなに物欲しそうにしてた?! ごめん、そういう意味で見てたわけじゃ……」
「ううん、そうじゃないんだ。賢者様なら、大切にしてくれそうって思ったから」
ハンカチを持つ手に俺の手を重ねる。彼の視線は俺の顔と手元を数度往復して、そしておもむろに手を引いた。
「えと……じゃあ、ありがたく、いただきます」
その言葉は遠慮がちだったけれど、押し付けになっていないかなという心配は不要だと、ハンカチを見つめる彼の眼差しが何よりも雄弁に語っていた。
「うん、……ありがとう」
「ええ? ありがとうはこっちのセリフだよ……。……あ、そういえば美味しいおやつもらったんだけど、食べる?」
「わあ、いいの? だったら俺がお茶をだすね。お茶会にしよう!」
喜んでもらえたし、おやつにも誘われた! ふわついた気分のまま呪文を唱えれば、突然現れたお茶会セットに驚く賢者様。でもすぐに彼は笑ってくれたから、俺はついに鼻歌でも歌いだしてしまいそうな気分になる。
もっと、賢者様のことを知りたい。もっと賢者様に知ってほしい。もっと仲良くなりたい! それにはお茶会が最適なのだと、師匠が教えてくれたから。さっそく幸運をもたらしてくれたクローバーとてんとう虫に笑いかけて、俺はどの茶葉が最適だろうと思案をはじめるのだった。
2021/3/29
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