最強の魔法使いだと、人間にも魔法使いにも恐れられるオズは、突き刺すような極冷の吹雪に長い黒髪を靡かせていた。そんな最強の魔法使いを恐れない賢者はオズと並んで歩いている。いつもの白と紫を基調とした服装より数段もこもこの服を着ているものの、寒さに頬や鼻の頭が赤らんでいた。とはいえ、厚手のコートを羽織っただけのオズと同じく、ふつう北の国ではとても耐えられない格好をしていた。何故そのような格好をしていながら北の国のような寒冷の地で無事なのかといえば、ひとえに、オズが魔法使いとして、彼自身と賢者に防護魔法をかけているからだ。彼の魔力は強大で、その魔力を体温の維持に使えば極寒から身を守ることなど造作のないことだった。
オズは賢者と共に、以前依頼を受けたトトの村を訪れていた。いつもはおおよそ国単位で行動をするが今回は身軽さが重視されるため二人で請け負うことになった。その任務も滞りなく早々に終えて夕食を振る舞われた際、トトの家に村人が飛び込んできた。入村する際の挨拶の場にもいた、村の男だ。
「こっこが生まれる!」
よくよく話を聞けばどうやら人の子ではなく、犬の子が生まれるらしい。せっかくだから見にこないかということだった。
オズは賢者が――直隈が犬を好きだったことを思い出していた。トトが以前魔法舎を訪ねてきた時は数匹のそり犬に感激していたし、その辺りの村々で歩いている犬を見かけると必ず凝視している。加えて、控えめではあったが――以前、犬になってもらえないかと頼まれたこともある。
何故、と尋ねると彼は至極真面目な顔で、訥々と犬の素晴らしさを語り始めた。しばらく彼の言葉を聞いて、考えて。それからつまり。オズがそう促すと、明快な一言が返ってきた。「犬が好きだから」。
直隈の表情を見るとやはり彼は目を輝かせていて、賢者が望むのであればそれもいいだろうと頷いたところで彼に手を引かれた。どうやら彼が好きにすればいい、という意味を一緒に見に行ってもいい、と受け取られたようだ。このまま断ってもよかったが、新たな生命の誕生を前にはしゃいでいる直隈の姿に幼き日のアーサーを思い出し――わざわざ遮ることもないだろう、と彼にならいついていく。
柔らかい藁で作られたベッドにお腹が膨れた母犬がいる。案内をした村の男やトトも加わりお産を手伝う様子を、賢者は緊張した面持ちで両手を握り締め見守っていた。一匹、もう一匹と母犬の腹から子犬が生まれてくる。次第に鳴き声が増えていき、ついに最後の一匹がはじめての母乳にありついた。補助をしていた村人たちもほっと息をつく。
「……オズ」
心底安堵したような声だ。無言のまま先を促した。
「……よかったねぇ、みんな、無事に生まれて」
彼はそう言ってまなじりを下げた。ああ。オズが頷くと彼はなおも嬉しそうに笑う。
彼はすぐさま身を翻し、手伝いますよ! と茶を用意していた村人に申し出て、逆に恐縮させていた。
テーブルを囲み、先ほどよりも人数が増えたティータイム。極少しずつではあるがオズに慣れ始めた村人たちは次第に口数が増えていき、その中で賢者の犬好きについての話にもなった。
「賢者様は以前俺が魔法舎に伺った時にも、犬たちと遊んでくださいましたね」
「いえいえ、おれの方こそ彼らに遊んでもらったんですよ。中央では彼らほど毛皮の厚い子はあまり見ないので、とても嬉しかったです」
犬が生まれる、とトトの家へ飛び込んできたこの家の主が興味深そうにその話を聞いて、はっと閃いた様に直隈を見やった。
「でしたら賢者様、今日生まれた犬のうちの一匹をもらってやってくれませんか!」
「えっ?!」
素っ頓狂な声をあげ、直隈はカップを落としかけた。慌てて掴み直し、ほう……と胸を落ち着けている間にも家主とトトの話は盛り上がっていく。
「いい考えだ! 今回の依頼のお礼としても、是非お受け取りください。それと……昔、アーサーが迎えなかった犬の分も」
トトの言葉を聞き、オズは何年か前のことを思い出していた。まだアーサーが幼なかった時分、生まれたばかりの子犬を大層可愛いがった少年に、村では子犬を献上するかどうかという話が出たのだ。
出産の知らせを受けた時のようにまた、直隈はキラキラとした目で見上げてくるのだろうか。なんとなくそう考えたオズは直隈の表情を見て、彼と目が合わなかったことにも、彼の表情が明るいものではなかったことにも驚き目を見張った。――最も、この場の誰もオズを見ていないし、例え見ていたとしてもかろうじて直隈がわかるかわからないか程度のものではあるが。
「――…あの、」
控えめに口を開いたが村の男二人の耳には入っていないようだ。直隈は一度考え込むように口をつぐみ、一呼吸置いてから再び声をかける。
「あの! ……すみません、せっかくのお話ですが」
彼は断った。家主とトトはええ?! と声をそろえて驚き、オズは無言を貫いて、彼の言葉の続きを待つ。複数人の視線を受け止め、彼はすまなそうに首を振った。
「お気持ちは凄く嬉しいのですが……おれはいつ故郷へ戻ることになるかもわかりませんし、中央の気候では彼らにとっては暑すぎるでしょう。……それに、さっき生まれた子達は、アーサーがかわいがった犬よりも小さいのではないですか」
結局かつてのアーサーは子犬が母犬と別れるのを惜しんで、オズの城へと引き取ることはなかった。自身の境遇とも照らし合わせての答えだったのだろう。微笑む直隈の横顔は既視感のあるものだった。トトと家主もばつが悪そうに頷き視線を落とした。
「ああ、俺たちの村の犬が賢者様へ……魔法舎へ献上できるならと気持ちが逸ってしまいました。こんなにもかわいがってくださる方なら安心だと……お恥ずかしい限りです」
トトをみやった家主が迷ったように視線をうろつかせ、しかし意を決したように顔をあげ、直隈へ語りかける。
「……それでは、もし賢者様がよろしければ……賢者様のお名前を生まれたうちの一匹にいただくことを、お許しいただけませんか」
「……おれの名前、ですか……?」
「はい。知っての通りこの村に生まれた犬はみなそり引きになります。賢者様のお名前にあやかれるなら、さぞ立派なそり引きになることでしょう。今回も賢者様と、魔法使い様が村の危機を救ってくださいました。賢者様のお名前を我が村に残すことを……お許し願えませんか」
「おれは、そんな……今回のことが解決したのもオズのおかげですし……」
思わぬ申し出に戸惑った直隈がオズを見上げる。直隈とやっと目が合ったオズはいつも通りの表情で、「賢者の好きなようにするといい」とだけ呟いた。直隈は頷いて、家主とトトと順番に目を合わせる。
「──…はい。おれの名前でいいのなら、喜んで」
彼の返事に二人は相好を崩し、それからは生まれた子犬たちの名前の話で盛り上がっていった。
夜が明け、村総出で見送られながらオズの魔法で移動用の空間が作られる。お礼に渡された謝礼品は同じくオズの魔法で小さくして、既に荷物の中に丁寧にしまっていた。村人達に別れを告げ、魔法の空間が閉じれば空気も音もすべてが変わる。中央の国の塔はしんとしていて、風と鳥の鳴き声が遠くから聞こえるくらいだ。中央の国の気候にすぐさま直隈は暑さを訴えるとオズの魔法で瞬時に調整された。
「あ、ありがとう……」
そう言いながら彼は一番厚手の上着を脱いだ。塔の階段を降りていく直隈の背中を眺めながら、オズはじっと考えていた言葉を口にした。
「……お前が元の世界へ戻ったとしても、魔法舎で飼うことをよしとする者も、犬を引き取って育てたいという者も多くいるだろう」
「ん? ……うん、そうだろうね。でもなあ……今回は特に、おれにって話だったからなあ。その子の寿命が終わるまで一緒にいられない可能性が高いのに、それを知りながら譲り受けるっていうのは、みんなに失礼だと思ったんだ」
「魔法舎への献上品ならば受けていたと?」
「う~~ん……だったらもうちょっと迷ったかもしれないけど、でも、やっぱり暑かったしなあ」
そう言って直隈はオズを振り返り、腕に抱えた上着を持ち上げた。
「オズ、もしかして犬飼ってみたかった?」
「何故」
「えっ、すごく気になってるみたいだから」
「……、……お前は、犬が好きだろう」
「……うん」
「……」
「……、……えっ?! あっ、もしかしておれのために……?!」
今度は歩みを止めて勢いよく振り返った。オズは何も言わなかったが、その無言を肯定と取った直隈は感激の声を上げている。
「え~~……ありがとう……めちゃくちゃ嬉しい……」
直隈が歩みを止めている間にもオズは階段を降りていく。ちょうど、二人の位置関係が先ほどと入れ替わったあたりで直隈も再度歩を進めた。
「……おれが考えてたのはね」
オズの背中を眺めながら言葉を投げかける。返事はなかったが、耳を傾けていることをよく知っている直隈は言葉を続けた。
「犬のことは、仕方ないとして。その後おれの名前をくださいって言ってくれてたじゃん。おれの名前って、残るんだって思って。オズ、前に言ってくれたでしょ? 役目に飲み込まれるな、お前の名前を忘れさせるなって。そりゃあ覚えてて欲しいけど、前の賢者様と仲がよかったっていうアーサーもヒースクリフも、他のみんなも名前を忘れちゃってて、中々難しいんだろうなって思ってたんだよね、でも」
直隈はやや足を速めてオズと並んだ。オズの横顔を眺めながら階段を降りていく。
「あの村にはおれと同じ名前の立派なそり犬がいるんだって、もしかしたら由来は忘れられちゃうかもだけど、でも、あの犬の名前としては残るんだなって……しみじみ? してさあ」
二人の足が、ほぼ同時に階段の一番下へたどり着いた。重い扉を開けて、まだ高くなりつつある日に照らされながら直隈は朗らかに笑った。
「なんとなくね、ほっとしたような気持ちになってた」
「……そうか」
短く返しながらオズも扉をくぐった。
「あの村は、私が住んでいたところへ勝手に移り住んできた者たちの子孫だ。私を崇め貢ぎ物を捧げてきたが、私は滅ぼしも庇護もしなかった」
「うん」
「しかしアーサーの服のことも、私の城に夜ごと灯がともることも、犬の貢ぎ物を断ったことも、すべてあの村が関係している」
「そうだね」
「今後、あの村が栄えたとしても滅びたとしても、私の知るところではない。……だが、私があの村を忘れる理由もない」
「……、……あははっ」
そのまま角を曲がると、ちょうどお茶会を開いていた魔法使い達が気付き、手を振って二人を迎える。直隈はしばらく笑ったあと、彼らに向けて軽く手を振りかえした。荷物だけ置いてお邪魔しようよ、という提案にオズは少し考えていたが、彼がどう答えるかは直隈には分かっているようだった。
2022/05/22