その日の朝は、あとになって思い返すと確かにその兆候があったように思う。
いつもはおれが目覚めるタイミングと同じか、それよりもう少し早く起きているはずのクロエがまだ眠っていた。声をかけるとすこしむずがるように瞬きをして、上体を起こしたおれの体に沿うように寝返りを打つ。甘えるようなしぐさに口元を緩ませながら彼の赤い癖っ毛を撫でて寝ぐせを整えた。
しばらくして起こしたそのあとは反対に、朝食を終えても何か落ち着かない様子で終始そわそわとした様子のクロエだった。しかし話しかければいつもと変わらない受け答えをするので、ここのところは衣装づくりに精を出していたようだし、疲れがたまっているのだろうとそう気に留めることもなかった。
ところが午後になり、洗濯物を取り込む際には打って変わってぼんやりとしていたようなのでもしかして熱でもあるのだろうかと声をかけると、やはり彼はどこか眠たげに目を細めたまま、抱きしめたシーツから顔を少しだけ上げてつぶやいた。
「……賢者様の、匂いがする……」
そういったきり、再びシーツに顔をうずめる。匂いがする? 洗いたて干したてのシーツなのに?
確かめようにも、おれがかいでも洗剤の匂いがするばかりだし、シーツに名前が書いてあるわけでもない。こだわりがある者は各自で用意したものを使っているが、おれの寝具はもともと魔法舎に置いてあったものを使っているだけなのだ。
「クロエ、……」
なんと声をかけようか迷っていた矢先、やや遠くで爆発音が聞こえた。そのすぐあとには怒号が鳴り響く――ブラッドリーの声だ。大方ミスラかオーエンとでも喧嘩をしているか、もしくはオズに吹っ掛けたのだろう。爆発という現代日本での暮らしではそうそうお目にかかれない規模の出来事をこちらの世界にきて初めて目にしたときはおろおろとしてしまったが、今は巻き込まれないよう近寄らないでおこうと思うぐらいには頻繁にこの爆発を耳にしている。慣れって怖い。
爆発の塵が洗濯物についてしまう恐れもある。早いところ取り込んでしまおうと顔を上げたところで、クロエが顔を真っ赤にして目を白黒させていることに気が付いた。
ぼんやりしていた様子とは一変、我に返ったクロエはてきぱきと洗濯物を屋内へ運び、手を引かれるままに彼の部屋へ。彼はしばらく言い淀んでいたが、やがて意を決したようにおれに向き直ると口を開いた。
「……もしかしたら、賢者様もなんとなく気づいてたかもしれないけど……」
「……うん? うん」
なんとなく様子がおかしいのはわかっていたが、その原因は全くわからない。ややすれ違いを感じながらもとりあえず先を促す。
「あれが、来たのかも……」
「あれ?」
「……巣作りの……時期が……」
「……、……巣作り……」
こくん、クロエはうなずいた。
巣作り、とは。
相当おれの顔がきょとんとしていたのか、クロエもまたきょとんと首を傾げる。
「……」
「……」
「うん、えーと……ごめんなんだけど、巣作りって、なに?」
結論から言うと、巣作りというのはこの世界の人々みんなにあるらしい、ホルモンバランスの変化からくる行動のことだった。
元来、魔法使いや魔女を含めたこの世界の人々は猫をルーツとしているらしく。今の今まで知らなかったほどおれの知っている人々と以通っていながらも、おれの知っている人々とは決定的な違いがあった彼らは、第二次成長が始まり間もなくすると動物的本能にのっとり、自分の安心できる空間を作ることにこだわりだすらしい。
傾向の強さは人によってさまざまだが、安心できる空間というのはいわゆる自分や親しい者の匂いが付いた場所であり、もっというとその匂いが付いた物を自分の部屋に集めたり、身に着けたりするのがより落ち着けていいらしい。自分の好ましいと感じる匂いのものを集めた場所を巣と呼び、その行動を巣作りと称するのだ。
巣作りの時期というのも人によって差があるみたいだがおおよそ数か月から一年単位で周期があり、他にも大きく環境が変わった時期など心身のバランスが大きく崩れたタイミングでも同様の行動をするらしく、また多くの場合五感のいずれかが過敏になるそうだ。
「ええと……それで、クロエがいまちょうどそのタイミング?」
「うん……」
「なるほど……」
はえー、興味深くうなずいて、ハッとした。朝彼がおれにすり寄ってきたことと先ほどおれの匂いがするといってシーツを抱きしめていた姿を思い出す。これらの情報を統括すると、つまりクロエはおれの匂いを集めたがっているという、ことに、なるのでは……?
賢者服の上着を脱いで、恥ずかしそうに縮こまっているクロエに羽織らせた。感覚がわからないとはいえ彼の反応を見るにけっこうセンシティブな話をさせてしまったのだし、これ以上彼に何かを言わせるのは酷なように思えた。ついでにフードも被せる。えいや。
「わっ、……えへへ、ありがとう、賢者様……」
聞くべきところは聞かなければならないけど、察せられるところはなるべく先回りして希望を叶えられたらと思う。合っていただろうかとクロエの表情をうかがうと、彼はすみれ色の目を夢心地に細めていた。
「……ハグしていい?」
思わず手を広げて尋ねると、少しもしないうちに彼から抱きついてきた。力強く抱きしめられるのは、先日街での祭りに参加してハイテンションになったときしたものが記憶には新しいが。
(……めちゃめちゃ嗅がれてる気がする)
肩口に顔をうずめたまま深呼吸をするクロエ、おれもまた同じようにクロエの匂いを感じ取っているのでおあいこと言えばおあいこなのだが。お日様の匂いがする、というのであればまだしも、洗濯後にもなおおれの匂いが分かるというクロエの今の嗅覚を考えると、天秤が彼に傾きすぎているような気もする。
しかし彼に少しでも安心感を与えられているのであれば、嬉しさと多少の気恥ずかしさこそあるものの、嫌悪感など覚えようもない。
ふふと密かに笑いつつ、被せたフードごしに彼の頭をなでると、背中へ回された腕に、より情熱的に力がこもるのが分かった。
2021/02/24
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