恋かもしれない、恋ってなんだ?

「やぁ……酔っ払いの戯言だと思って聞いて欲しいんだけどさ」
 からん、グラスに入った氷を揺らしながらおれはそう前置きをした。じんわりくらくら、頭の芯が揺れる酩酊感に目をゆったりしばたたかせると、二人がこちらを振り返った。
 オトナのお酒の楽しみ方を学ぶ会、そう称してフィガロに連れて来られたのはシャイロックの酒場。用があって彼の部屋を訪れたのだが、話の流れであまり頻繁に酒を飲まないが興味はある、という話をしたらあれよあれよという間に連れられてしまった。事情を聞いたシャイロックも中々に乗り気なようで、作ってくれたカクテルを説明するときはいつもよりもさらににこやかな気がした。
 初心者用に作られたそれは甘すぎず辛すぎず、シロップのさわやかな甘みによって、西のルージュベリーの甘酸っぱさが引き立てられている。予め尋ねられた好み通り炭酸は控えめでとても飲みやすく、つい一口、もうひとくちとグラスを進めてしまうほどだ。ちなみにシャイロックの説明によると、アルコール度数も低めなのでうっかり飲み過ぎてしまっても大丈夫、らしい。
「なんかさぁ、最近……さいきん? んん、もうちょっと前からかも……クロエが、すごくかわいくて」
「……おや」
「なぁに、賢者様の恋の話?」
「こい……恋? 恋ってなんだ……うーん……わかんないけど、クロエがかわいく見える……なんでだろう……」
 ぼそぼそと呟くように言ってから彼らを見上げると、ふたりはにんまり笑顔を作った。どうやら数百年では足りないぐらい長い時間を過ごしている魔法使いにとっても、こういう話は楽しいもののようだ。
「でも、ひどいなぁ賢者様」
 バーのカウンターにゆるくこぶしを握ったおれの手のひらの上に、そっとフィガロが手を重ねた。そちらを見やると彼はずいっと顔の距離を近づける。端整な顔立ちが視界いっぱいに広がった。ちょっと困ったように眉を下げて、彼はさも「寂しいです」と言わんばかりの表情を作る。
「前に、俺と恋をしようって誘ったのに。……こんな話を聞かせるなんてさ」
 アッ、これは籠絡モードのフィガロだ! 中央の国でのパーティーを思い出した。あのときはフィガロの人となりが今以上によくわかっておらず、いったい何を言っているのか分からなかったためホラー映画さながらの恐怖さえ感じたが。じわじわと込みあげてくる笑いを堪えきれずに、おれはふへへと気の抜けた声を漏らしながらフィガロの手で遊び始める。こうすると、彼は何故かひるむ。なんとなく分かってきた気になっている彼の行動の一つだ。ていうかフィガロの手は指が長くて手がでけぇ。普通にうらやましい。
「フィガロが誘ったのは恋をしようって話じゃなくて、フィガロに一方的に恋をしてって話だろ。ヤだよ」
「あらら、フラれちゃった」
 何でもないような顔をしてフィガロは肩をすくめた。
「しかし、そうですね。クロエはたしかに素直ですしかわいい子だと思います。その中でも賢者様は彼のどこを、ことさら魅力的だと思ったのでしょう?」
 シャイロックに問われて少し考える。魅力的、つまり、どこが好きかという話。
「う~~ん?」
 クロエを思い浮かべながらまた一口グラスをあおる。肉体的なフラつきはともかく、思考は通常運転だと思っていたが、もしかしたら脳みそもしっかり酔っ払っているのかもしれない。ついでに肝臓も分解しきれないアルコールに戸惑っていることだろう。いまいちハッキリとした答えは浮かんでこなかった。というかそもそも、かわいいなーって漠然と思っているだけで、あんまりどこがそう思うのかは言語化していなかった。だって、誰かに話したのだってこのタイミングが初めてで、感情を共有できるような人もいなかったし、身近な人間に対してこんなに出所不明の大きな感情を持て余すこともこれまではなかったし、独り言をつらつらと書き連ねるようなツールはないし。うーん、賢者の書とはまた別に、破棄することを前提とした日記帳とか、付け始めた方がいいのだろうか。ただでさえなかった語彙力が益々減退している疑惑が、ここに来て浮上している。
 クロエのいいなと思うところはたくさんあった。いまシャイロックがあげたような素直なところもそうだし、癖のある赤毛や誰にでも親切なところ、泣きぼくろはチャームポイントだし、将来の夢を持っているところ、針仕事でかたくなった冷たい手、土壇場では思い切りがいいのもそうだ。たまに自信なさげに眉を下げている表情やそれに至る心の機微さえ、彼の魅力の一つと言える。
 そのどれか一つだけを選んで挙げるのは、彼を語る上ではまったく物足りないように感じて、しかし思いついたことをすべてあげるのも、なぜかまた物足りない気がしてしまう。クロエの魅力はいまあげたものすべてがそうだと言えるけれど、もちろんそれだけではないし、加えて、そのどれかがなくなったからと言ってもクロエが魅力的でなくなることはない。
「うーん、クロエの好きなところ……」
 それだけに答えあぐねてしまう。「かわいいなと思ってる子の好きなところはどこ?」、そう尋ねられて即答できないいまのおれは、端から見たらその子のことを好きじゃないように見えるのだろうか。小皿に盛り付けられた猫目豆を口に運び、また唸った。
 自分でも自分の感情をなんとか言語化したくて、脳みそをぞうきんのように固く絞りつづけてみる。
「……。……、……存在?」
「おやおや」
 その果てにひねり出した答えが、これだ。シャイロックは微笑ましげに目を細めた。対するフィガロは肩を震わせて笑っている。こねくり回している手ごしにこれでもかというほど振動が伝わってきた。
「ふふ、妬けてしまうぐらいの、なんて熱い告白なのでしょう。本人に聞かせて差し上げたいぐらいです」
「あ……誰にも言っちゃダメだからね! スルーしてね!」
「ええ、もちろん。バーのマスターとして、最低限の心得はありますから。大切なお客様の、ましてや愛しい賢者様の秘密を漏らすなんてことはいたしません」
「ねっ! フィガロもだからね」
 いまだにカウンターに伏せって笑い続けているフィガロの、ゆるく握りこまれた手をべしべし叩く。ちょうど先ほど、フィガロに手を握られたときとは逆のシチュエーションになっていた。


2020/07/02